丹沢の鉱山跡を探る 6  丹沢だより431号 2006/6(丹沢、玄倉鉱山の調査)

丹沢の鉱山跡を探る 6    



                           鉱区図



                     半分埋もれた抗口
3. 「丹沢だより」の記事から

3-3-1.「玄倉 東沢の鉱山」(はたして金山はあったのか?) 

『丹沢だより』における唯一の鉱山に関した記事は、No.409(2004)奥野氏の「武田信玄の金山」である。山北町地方史研究誌の足柄之文化2号(1959)に掲載された「信玄の金山をたずねて」の紹介を兼ね、丹沢山中の鉱山(金山)について書かれたものだ。

 さてこの足柄之文化に出ていた鉱山は、東沢のどこにあったのか?採掘されていたのは何だったのか?はたして金だったのか?また奥野氏が書かれてたモチコシ沢のウラン鉱の話は、夢だったのか?興味が尽きない。

 戦後のガイドブックには、東沢途中に鉱山、モチコシ沢源頭部に鉱山があったことが書かれているので、鉱山があったことは確かである。しかし戦前・戦中のガイドブックには、いろいろ調べたが、まったく書かれていないのである。

 鉱山に興味がなければ書かれなくて当然と思うが、当時のガイドブックを読むと単なる登山記録だけでなく、いろいろな地史的なことも書かれている。それなのに書かれてないと言うことは、多分無かったのであろう。奥野氏が言われている昭和16年には、まだ鉱山(坑道)は存在しなかったため、見つけられなくて当然だと思う。しかし例外が1つだけ発見できた。これについては、後で紹介をするつもりだ。以下ガイドブックの記事(年代順)

1.丹沢の山と渓 山と渓谷社S27年(1952)

   p187モチコシ澤の項目 鉱石採掘現場は、東沢の中間位置であろう

   p206小川谷の項目 東沢にて鉱物を採掘している

2.丹沢山塊 登山地図帳 山と渓谷社S31年(1956)

   p196小川谷の廊下の項目 東沢にて鉱物を採掘している

3.丹沢の山と谷 登山地図帳 山と渓谷社S33年(1958)

   p217小川谷の廊下の項目 東沢にて鉱物を採掘している

4.富士丹沢三ツ峠8 改定3版 創元社 S42年(1967)

    p169モチコシ沢の図に鉱山の記号 

    p167女郎小屋沢の項目 途中東沢へ下る鉱山道がある

5.アルパインガイド23 山と渓谷社 S42年(1967)

    p150モチコシ沢の項目 間もなく鉱山があったところ

6.丹沢の山と谷 東京雲稜会編 山と渓谷社S45年(1970)

    p233モチコシ沢の項目 まもなく水も涸れはじめ途中鉱山跡を 

  これらのガイドブックから察すると、東沢では、昭和27年(1952)には鉱山があり、少なくとも昭和33年(1958)までは稼動していた。昭和42年(1967)のガイドブックには、出てこないところを見ると、これ以前に閉山したようだ。またモチコシ沢の鉱山は昭和27年(1952)にはまだ見出されていない。
 しかし奥野氏の記事によると昭和32年(1957)には坑道があったようだ。そして昭和45年(1970)には、閉山していることが伺える。初出の足柄之文化の記事が昭和34年(1959)なので、これらのガイドブックの記事とだいたい符合する。

  玄倉 東沢周辺は、丹沢山中で好きな場所の一つである。何回となく東沢を通ったが鉱山跡があることはまったく気がつかなかった。ただ東沢にトロッコのレール、車輪などが土砂に埋もれていたことは知っていた。あの苔むした沢筋に鉱山があったとは…

 足柄之文化18号(1989)の「玄倉史話」で池谷氏が、東沢にあった鉱山のことについて書いておられる。昭和36年(1962)から数年、東京の三川建設が掘削。東沢の右岸で坑道の長さ40m、高さは人が立って歩けるくらい。現在は土石で坑口は埋まっている。とのこと。昭和28年の鉱区一覧によると昭和24年(1949)に東京の三川氏が登録番号試登268号で鉱種 金・銀・銅・硫化鉄での試掘登録を採掘地区 三保で受けている。坑道の長さが40mと言うのは結構長い。トロッコがあってもおかしくない長さだ。

 昭和39年(1964)の丹沢/大山学術調査報告書第6部調書および図面、付図Ⅸによると、この場所には2箇所の鉱山が、しかも本格的な採掘登録(試掘ではなく)を受けて稼動していることが書かれていた。一箇所は登録番号21番の三川氏、もう一箇所は、登録番号25番の日本ウラン鉱業であった。また日本鉱産誌には、この付近に三川氏の「丹沢鉱山」があると記されている。そして自然と文化No.7(1984)によると「丹沢鉱山」と「玄倉鉱山」があったとのこと。さて初出の記事の鉱山はどちらなのか?

 ここまで足を突っ込んだらトコトンやってやる。との意気込みで鉱業の大元締めを訪問してみた。にわか勉強した鉱業法によると、採掘及び試掘出願がなされた鉱山が登録されると鉱業原簿に記載され、誰でも閲覧することが可能となっている。

 そこで、さいたま新都心にある関東経済産業局資源エネルギー環境部鉱業課を訪問して鉱業原簿の閲覧にチャレンジしてみた。一般の人は絶対行かない鉱山課。下調べは充分して門前払いを食わないように恐る恐る訪問した。必要書類を記入の上、神奈川県秦野の5万分の一地図上の鉱区を確認 なんと2箇所の鉱山が地図上に記入されている。(丹沢/大山学術調査報告書 付図Ⅸと同じ位置)登録番号を申請書に書いて提出すること数十分。鉱区閲覧をする人は、ほとんどいないようなので係りの人も右往左往。その結果「消滅されているので資料がありません。」とのこと。はぁ?消滅。なんと鉱業原簿から記録は抹消されていた。

 登録者が登録を消滅すると閉鎖原簿に送られ20年のちに閉鎖原簿から自動的に抹消されてしまうそうだ。もちろん大日鉱山、渋沢鉱山その他丹沢にあると言われていたほかの鉱山も閉鎖原簿から抹消され記録が廃棄されていた。鉱山跡を探すためには、地道に足で稼いで探さなくてはならなくなった。せめて閉鎖された原簿でも見られないかと喰いさがり、探してもらったら、なんと!登録番号25番の閉鎖原簿だけは、20年を経ても廃棄されずに残っていた。

 和紙に書かれた鉱区詳細、鉱種、出願者の名前、閉鎖までの権利の移動の経緯、閉鎖の年月など知ることができた。鉱区詳細は、1000分の1の地図上に坑道の位置が記され、それによるとモチコシ沢源頭部に左右に1本ずつ。同角山稜から東沢乗越への経路が横切っている同角沢の上方右岸に1本坑道があることが判明した。当初の鉱種は金、銀、銅、ビスマス、コバルト、モリブデン、タングステンと言う相当たるもの。しかし奥野氏が言われているようなウランは記載されていない。

 本当は、ウランを探しているのだけれども秘密だったので書いていないのか?当時は原子力ブームで日本全国ウランの探鉱が行なわれており、ひょっとして一攫千金のウランを狙っていたのかもしれない。登録者は、日本ウラン鉱業。丹沢/大山学術調査報告書第6部調書および図面に書いてあった日本ウラン鉱業に一致する。
 「丹沢鉱山」の北東に隣接するモチコシ沢源頭部の鉱山は、「玄倉鉱山」であることが確定した。東沢の「丹沢鉱山」が先に採掘を始め、その場所を取り囲むように「玄倉鉱山」が鉱区を設定し数年後採掘を始めている。はたして「玄倉鉱山」に勝算はあったのか?残念ながら両者ともあえなく敗退したようだ。

 さて初出記事(足柄之文化2号)の鉱山の場所は丹沢鉱山か玄倉鉱山か? 記事によると玄倉を発って12時には到着。途中 富士山が見えるとのこと。そして「山を上り、そして下る道もだんだん深山の様相を呈してくる。中略 沢伝いの行くと金山はすぐ其処に見えるとの事」富士山が見えてからさらに上り、そして下る?東沢から富士山が見える場所としたら、ほとんど稜線に近い東沢乗越付近、モチコシの頭しか考えららない。そこから下るとすると、モチコシ沢源頭部の鉱山である「玄倉鉱山」とも考えられる。

 東沢は西に開けた沢なので、沢の途中から富士山が見えてもおかしくないが、高度が高くならないと見えないはずである。そこでカシミール3Dでシミュレーションしたところ高度1044m以上なら富士山が見え出すことがわかった。鉱山からの帰路は、「一端すこし下り東沢の尾根を越えて女郎小屋沢を下った。」とのことから、東沢左岸の尾根を経て女郎小屋の頭から下山したようだ。メンバーに小学生がいることを考えれば、これは尾根筋を下ったことに間違いはない。女郎小屋沢の右岸か左岸か?これは左岸であろう。なぜならば右岸を下ろうとすると、途中女郎小屋沢乗越と大タギリの凄いギャップを通らなくてはならないからだ。左岸ならば尾根伝いに出合まで、さしたる危険もなく降りることができる。12時40分に出発して15時には玄倉川に着いているので尾根筋であることは明らかである。この記事から察すると、「丹沢鉱山、玄倉鉱山」どちらとも取れそうだ。

 鉱山があったことなど露知らず、何回となく通過した東沢。だれにも知られることも無くひっそり佇む鉱山跡。そこで今度は目線をこうざんし鉱山師に切り替えて探してみることにした。

(秘密兵器「はかるくん」を携えて)

つづく

3-3-2.まだまだ続く「玄倉 東沢の鉱山」 

参考文献は、次回掲載

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